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ズーカラデル

『ズーカラデル』

ズーカラデル

[label: SPACE SHOWER MUSIC/2019]

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生きる、歌う、ロックを鳴らす

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Text by 小川智宏

 歌はなんのために歌われるのか。ロックはなんのために鳴り響くのか。このアルバムを聴いていると、そんな根本的で簡単ではない問いがぐるぐると頭の中を回る。そして、聴き終えるころにはあまりにもバカみたいでシンプルな答えに辿り着く。そしてそのバカみたいでシンプルなことすら見えなくなっている自分に愕然とする。

 

 北海道出身の3人組、ズーカラデルのファーストフルアルバム。バンド名が冠されたそれを、僕は毎日聴いている。そしてそのたびに、振り切れた心のメーターの針がゼロの位置に戻るような感覚を覚える。「あれ、俺って息してるっけ」と思って自分の呼吸の音に耳を澄ましたり、首筋や手首や左胸にふと手をやって自分の脈動を確かめたり、そういうことがときどきあるが、僕にとってズーカラデルを聴くというのはだいたいそれと同じことになりつつある。「大丈夫、生きてる」――弾むリズムと躍るコードと全力疾走するメロディに笑い高揚しながら、心ではむせび泣いている。酸いも甘いもとはいわないが、それなりにいろいろなことを経験してきたつもりの大の大人を激しく揺るがすこの感情は一体なんなのか。

 

《羽根は未だ無いけれど 俺は/行かなきゃ ほらイエスと言え》(「イエス」)

《あなたを笑わせたいのだ/歯の浮くような台詞を並べて》(「漂流劇団」)

《息も絶え絶えに繰り返す普通の日々を/彩る魔法が使えたのさ あの時 間違いなく》(「春風」)

《頭の中の世界から抜け出して/濡れても歩き出せる/鈍い痛みの中で》(「生活」)

《掃いて捨てるようなこの日々を/なんて呼べるか 今も考えてる》(「青空」)

《輝く世界に目を焼かれても/見えないままで歩いて行かなくては》(「光のまち」)

《YOU AND I 泥だらけの 僕らの世界を歌え 何度も》(「アニー」)

《「あしたのあさにはまたわらっててほしい」 とさ》(「前夜」)  

 

 と、思わず歌詞を片っ端から書き出してしまったが、どうだろう。どれも同じようなことをいっているように読めないだろうか? そう、吉田崇展の書く歌がいわんとしていることはそんなに多くない。数年にわたって作られた楽曲が集まったこのアルバムを見渡すと、そのことがよくわかる。「あなたを笑わせたい」ということ、「明日に向かっていきたい」ということ、そして「この日々に意味はある」ということ。吉田が朴訥とした声で歌うのは、突き詰めればそれだけのことだ。そしてそれらはすべて究極的には「僕とあなたが生きているこの日々を、ちゃんと肯定してみせる」という意志に通じている、と思う。  

 

 大それた希望や無謀な夢、あるいは世の中への明確な反抗や敵意。そうしたものはズーカラデルの歌には登場しない。「歌う」の語源は「訴ふ」だといったのは民俗学者の折口信夫だが、そりゃあ曲をつくって歌詞を書いて歌ってCDまで出すくらいだから、言いたいことはないわけがないし、「光のまち」や「前夜」などには怒りにも似た感情が透けているとも思うが、その前に、と吉田はいう。まずは僕らが生きてきたし生きているし生きていくってことをちゃんと感じようぜ。つまり《息も絶え絶えに繰り返す普通の日々を》、《掃いて捨てるようなこの日々を》、《泥だらけの 僕らの世界を》――歌え、と。歌うことでその日々はちゃんとかたちをもち、明日をつないでいく。

 

 ズーカラデルが伝えてくれるシンプルな答え。歌とは何よりもまず人間(僕やあなた)が生きていることの確認と肯定であり、ロックとはその確認と肯定を肉体に響かせるための増幅装置だということ。それだけが大事で、それ以外は後からついてくるということ。だから吉田の歌もバンドのアンサンブルも堂々と正道を突き進む。恥ずかしくなるくらい「歌」で「ロック」でそれ以上でもそれ以下でもない。アルバム最初の曲「花瓶のうた」の最後で吉田は叫ぶように《歌うよ 意味ないけど》と歌うが、そのロックは単に「意味がない」というよりも、まとわりついてしまった「意味」を引き剥がすようなピュアさで鳴っている。

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