明日も生きる人のために
このアルバムはキラキラしている。でもダイヤモンドや貴金属のように眩しくてちょっと目をそむけてしまうようなキラキラではなくて、たとえば、キッチンの蛇口から垂れている水滴に朝日が当たったときとか、雨上がりの水たまりの上を自転車が通ったときに上がったしぶきとか、そんな感じのキラキラだ。つまり、このアルバムは僕たちのすぐ近くにそんな光があるんだよということをさも当たり前かのように伝えてくるのだ。
僕がカネコアヤノの歌が好きな理由は大きくわけてふたつある。ひとつには、彼女の歌にはちゃんと時間が流れているところ。今作でいえば「花ひらくまで」の「空きかけの缶ジュースのまわり/反射するアルミ 朝日で綺麗」とか、「ぼくら花束みたいに寄り添って」の「喧嘩の後のアイスは美味しいね」とか、ちょっとしたフレーズに、彼女が生きている、というより暮らしている時間が、その曲のなかには流れ、動き続けている(これは当たり前のようでとても難しい)。それからもうひとつは、彼女が「見て、感じる」というプロセスに対してものすごく意識的なところ。見たものにちゃんと感情を乗せて、そこに意味を見出して、それを大事に言葉にするというところに、カネコアヤノの真髄はあると思うし、そこにアニミズム的な聖性すら感じる。
1年半ぶりとなるニューアルバム『燦々』は、ある意味で前作『祝祭』と対をなすような感触をもった作品だと思う。それはより丁寧さを増したような音のタッチもそうだし、そこで歌われる言葉たちもそう。愛の喜びや楽しさにフォーカスするような曲が多かった前作に対して、今作の楽曲のすぐそばには陰りや不安がある。しかし同時に、今作のカネコアヤノは、その陰りや不安でさえも肯定し、愛そうという強い意志を歌っている。それがたとえばタイトル曲で歌われる「しっかりとした気持ちでいたい/自ら選んだ人と友達になって/穏やかじゃなくていい毎日は」「胸が詰まるほど美しいよ 僕らは」という一節に表れている。
退屈だろうが間違っていようが、「僕ら」の日々は燦々と輝いて続いている。それをより大きく抱きしめ、愛すること。『燦々』は優しいアルバムだが、その優しさはちゃんと強さに裏打ちされている。人と人との関係をセンシュアルに描く「布と皮膚」はその優しさと愛の証明だし、「輝きの果てには/ただ行くしかないのさ」と歌う「りぼんのてほどき」はその強さの証明だ