メロディーと言葉の幸福な関係、あるいは共に歌おう
たとえば、物を置くときの擬音。「コトッ」か「ゴトッ」かでその物の大きさや重さ、あるいは置く動作まで違って感じられるだろう。前者は小ぶりで軽く、そっと置いているようだし、後者は大ぶりで重く、やや乱暴に置いたような印象だが、字面の違いといえば「コ」か「ゴ」かだけである。文字の場合はそうだが、では実際に発声するとどうだろうか。声の高低や大小でこれまたニュアンスが変わってくるのは容易に想像がつくだろう。
前述のようなことは、日本語詞がつく音楽においては、見過ごされがちだが重要なポイントである。歌詞の「世界観」やそれを通じて「伝えたいこと」以上に、聴覚情報としての言葉選びとその音程、すなわち、どの音程でどんな言葉を鳴らすかが、聴く=聴かせるという関係性においては楽曲そのものを規定する要因たり得るからだ。
蓮沼執太の最新アルバム『メロディーズ』は、タイトル通りメロディーから制作を始めたという曲が多数収録されている。メロディーとはつまり旋律のこと。音が重なり合って生まれるハーモニーではなく、単音の旋律である。なるほど、口笛のメロディーからスタートする本作は、どの楽曲も蓮沼のボーカルが導く旋律が耳に残るものばかりだが、ここで歌詞の問題に目を移すと、良いメロディーを引き立たせる言葉選びが丁寧に行われていることに注目したい。メロディーを生かす音としての歌詞が採用されている、と言い換えてもいいだろう。一般的な歌詞とメロディーの関係性でいえば、悲しさを表す歌詞ならそれにふさわしいもの悲しげなメロディーに、楽しさいっぱいの歌詞であればそれを伝える旋律に、ということになるのだろうが、このアルバムで聴かれる歌詞とメロディーの関係性は、どちらが主でも従でもなく、対等なものである。こうしたメロディーと言葉の絶妙な関係(距離感といってもいいだろう)があるからこそ、「僕が作ったメロディーは僕が歌っても良いのだけど、違う人にも歌ってほしい」(「蓮沼執太によるアルバム『メロディーズ』解説」より)ということが可能になるのではないだろうか。
もうひとつ、本作の特徴を挙げておくならば、曲がどれもコンパクトだということであろう。蓮沼執太フィルでは、楽器数が多かったこともあり、とりわけライブでは各パートのソロがフィーチャーされ、それを構成の妙としてフィルならではの楽曲が発表されることも多かったが、『メロディーズ』ではそうしたアドリブ的な要素は限りなく排除され(これはライブにおいてもそうであった)、メロディーと歌に自然と意識がいくような構造になっている。楽曲のエッセンスを凝縮したかたちで提示しながら、その中に蓮沼が得意とする音響的なアプローチ、エレクトロニック・ミュージックだからこそ可能なサウンド・プロセッシングももちろん盛り込まれており、その意味では実験的ポップ・ミュージックともいえそうである。この意欲作、何度も聴いてメロディーを、歌を口ずさもうではないか。
蓮沼執太「メロディーズ」特設サイト
http://www.shutahasunuma.com/melodies/