やっぱ、ツェッペリンは世界一のロック・バンドでした。
レッド・ツェッペリンの『祭典の日(奇跡のライヴ)』を映画館で見て、そういえばツェッペリンて、アシッドやって見るバンドNO1だったなという事をひさびさに思い出した。『祭典の日(奇跡のライヴ)』の曲順むちゃくちゃアシッド臭かったです。5.1チャンネルのミキシングはあのアラン・モルダーだったし、ドラッグをきめたかのようにするのはお手の物ですよね。そういう風に発注するでしょうね。
ロバート・プラントがキーを低めで歌っているけど、それが大人なツェッペリンに見えていいなと思って見ていたんだけど、5曲目「フォー・ユア・ライフ」の映像処理や音の感じがアシッド臭くなって、ああそういえば昔はツェッペリンの映画 『永遠の詩 (狂熱のライヴ)』をアシッドキメて見るのが夢だったなということを思い出しながら、本来のツェペリンの姿にどんどんと引き込まれていった。「フォー・ユアー・ライフ」で幻想的にスモークがたまっていった時は、笑った。『永遠の詩 (狂熱のライヴ)』のみんなからいらないと笑われる4人のメンバーの幻想的イメージ・ショットも、アシッドやってみる奴には必要なんだよなと懐かしく思い出した。
自分の内面に入って行く前に、10分以上ある(たぶん)「死にかけて」で、完全にとばされるますが。大画面と大音量で見た時は本当にぶっ飛ばされました。手探りで始まったステージも、ここで4人が、完全にひとつになった。
「死にかけて」のジミー・ペイジのスライド・ギター凄かったです。ジミーのスライド・ギターがダンエレクトロからチャック・ベリーなギブソンES-350に変わっていたのはちょっとショックでしたが。でも、かっこよかったです。ジミー・ペイジのせいで市場価格がずっと高いダンエレクトロの値段落ちるかなと思ってました。
大きなステージの真ん中に4人がこじんまり集まっている感じもとってもよかったです。
ザ・ストーン・ローゼズもこうするべきだったなと思う。ザ・ストーン・ローゼズのステージ・セットは各メンバーが離れすぎだった。ツェッペリンは4人が本当にツェッペリンというバンドを大事にするかのように、4人が気を使いながら、団結して、自分たちの歴史を汚さないでおこうという気持ちがひしひしと伝わってきた。その緊張感はこれまで数々の奇跡のマジックを生んできた「天国げの階段」をやるまで続いていた。でも、そういう感じがよかった。
その緊張感が解き放たれたあとの、「永遠の詩」の爆発は凄かった。アシッドやっていたら、凄かったんだろうなと思う。
偉大なツェッペリンにドラッグの話ばかりで申し訳ないが。でもジミー・ペイジも今度発売される自伝『光と影』で「僕にとってはドラッグは切っても切れない自分の一部だった。」と語っているから大丈夫だろう。
でも、ツェッペリンが評価されなかったのはこの部分だったわけです。ようするにドラッグをやっている奴らが楽しみたいだけのバンド、音とグルーヴは凄いけど、ザ・フーのようにメッセージを語っていない。
クリームもツェペリンのようにメッセージはないけど、評価されるのは、オリジネーターだからか。それともクラブ・ミュージックに例えると、クリームはデトロイト・テクノで、そこにはスピリチュアルなものがあるけど、ツェッペリンはハードコア・テクノで商業主義でダメだと言っているのと似ている。
ピンク・フロイドもツェペリンのようにドラッグを楽しむ奴らのバンドなんですけど、ピンク・フロイドにはメッセージがあると思われている。壁を壊せとか、恐怖とは何だとか、別に対したメッセージじゃないですけどね。
でも、今回ツェッペリンを見て思ったのは、ツェペリンにとってメッセージとかそんなものはクソなんだ。音、グルーヴ、その塊に陶酔することの素晴らしさがツェペリンなのだ。パンクだったけどカート・コバーンはその部分にちゃんと気づいていた。ツェッペリンやエアロスミス、AC/DCなどの良質なハードロックには、型にハマったヘヴィ・メタル・バンドとは違う何かがあるのだと。カートの気持ちを代弁させてもらうと、音楽の塊に答えはないけど、真実があるみたいな感じか、それはパンクの本質でもあるのだ。ハードコア・パンクのあの体をぶつけ合うのと同じ感覚だ。そして、ツェッペリンが影響を受けるケルト音楽や、アラブの音楽などの民俗音楽の本質でもある。
ザ・フーのピート・タウンゼントが「ツェッペリンは俺たちがやったことをパクっただけかもしれないけど、俺たちよりも、上手くハードにやったんだ。そして、俺たちの何倍も金を稼いだ。俺は嫉妬してたんだ。」と言ったように、神の領域にいった世界一のロック・バンドの実力を久々に見せつけられた。そして、その実力は今も衰えていなかった。