MAURICE FULTON
モーリス・フルトン、13歳の頃からヒップホップのDJを始め、ハウス・ミュージックがまだアンダーグラウンドだった頃にはベースメント・ボーイズと共にクリスタル・ウォーターズ、Ultra Nateをスターにし、その後はニューホニックなどのレーベルから様々な名義で実験的でアブストラクトな作品や彼自身の波瀾万丈な人生を作品にした画期的なアルバムで不動の地位を築いた。現在はそうした活動以外にも彼の妻であるパンクボーカリスト”MU(カナモリムツミ)”のプロデューサーとしてハウス・ファンだけでなくテクノ、ブレイクビーツ、ジャズとジャンルを超えたファンから絶大な評価を得ている。そしてそんな活動と同じくらいぼくたちを熱狂させてくれるのが、彼のガラージ/ロフト/クラシックによる彼のDJプレイだ。けっしてそれらの音楽が過去のものじゃない、と現代に甦らそうとする彼のプレイはぼくたちを熱狂させてくれる。そんなクラブの生き字引にディスコとは、ハウス、ヒップホップとは何か聞いた。
─お元気ですか?
「元気だよ。MUのLPを制作しているんだ」
─その他は?
「DJ、録音、スリーピング」
─1984年頃あなたが一番最初にプレイしたクラブHATSのことを教えてください。
「ボル ティモアにあったゲイ・クラブだよ。ぼくはそこでレコードを回したり、遊びに行ったりしていたんだ。今から思うとそこにいたキッズたちを楽しませようとし ていたことが今のプレイに役立っているよ。そして最後にぼくが、その頃のいいDJからいいセットというのはどういうセットか習った場所だ」
─シカゴのようなシーンがボルティモアにあったのですか?
「シカゴというよりニューヨークという感じじゃなかったかな、ニューヨークが近かったし」
─名著『そして、みんなクレイジーになっていく』ではヒップホップとハウスはディスコの復讐という形で生まれたと書かれていましたがどう思いますか?
「ぼ くが思うにヒップホップはサウスブロンクスからの復讐であって、都会で70年代や80年代の音楽を聞いていた子供たちのものじゃなかったね。それに子供が ヒップホップを好きになってもディスコには入れなかったし。ぼくにとってハウス・ミュージックはディスコ・ミュージックだね。同じ4つ打ちだし」
─ディスコ・ミュージックとはあなたにとって何ですか?
「ディスコとはダンス・ミュージックの別の呼び名、それだけだよ」
─ぼくもそう思います。あなたがクリスタル・ウォーターズ、Ultra Nate等と共にアンダーグラウンドな音楽でメジャー・シーンを変えていた時代を今どう思いますか?
「とっ ても楽しかったよ。アンダーグラウンドの音楽はストロングで、それにぼくはまだ曲のアレンジの仕方やミックス・ダウンを習ってる途中だったし。それに Ultra Nateを録音する前からぼくは毎週ファンタジーというクラブに彼女が客を熱狂させているのを見に行っていたんだ。Ultra Nate、クリスタル、DJスピン、DJオジ&DJポペ、ぼくらは友達で音楽を作り合っていた。それはボルティモアに生まれたムーブメントだった。そして アメリカ中がそれに気づいていたんだ」
─日本でも、ヨーロッパでも世界中で知れ渡っていましたよ。今はシェフィールドに住んでおられるそうですが、ヒューマン・リーグを生んだエレクトリック・ミュージックの町の匂いは残っているんですか?
「プロデューサーはたくさんいるけど、みんな当時のエレクトリック・ミュージックと違うことをやっているね。今シェフィールドで人気があるのはグライムだね。後、ゲイトクラッシャーというハードコア・トランスのクラブもあるよ」
─最後にこれからの予定は?
「DJ、レコーディング&スリーピング」