ZAZEN BOYS
共鳴、共感、ぶっ飛ばされた夜は目が合えば誰もが笑う最高の真夏の夜のMATSURI
音が鳴った瞬間、会場の緊張感と期待が最高潮に高まり、予感を受ける。
「あ、やばいな、きちゃったな、これ」と。
誰も予想することのできない響音の世界、変貌自在のリズムとビートに一瞬にして放り込まれる。オラオラと鳴らされるZAZEN BOYSの音楽は、とても凶暴だ。自身が試されるかのような、息つく暇を持たせないかのような俺様な展開に持って行かれたかと思えば、ときおり心地良い優しさも見せてくる。サディストの音楽なんじゃないかと思えることが多々ある。
それなのにとても正しい。
幾度も通い続けている彼らのライブは、行く度に飽くことのない展開を見せてくれる。ものすごい鍛錬とストイックさのうえでのエンターテインメントなのだろうと、それならばこちらも生半可な気持ちでは向かい合えないなと、毎回その演奏を聴く度に思う。
音を聴き続けているうちに、自身の感覚と会場の一体感と4人の鳴らすうねりが全て一致するような感覚に陥ってしまう。
今回、ライブレポートを書かせていただくにあたり、なるべく落ち着いて客観的にライブを堪能しようと思い臨んだが、一瞬にしてそんなものはたち消えてしまった。
気がつけばビールをあおり、汗まみれで踊り狂っていた。
2015年7月23日のMATSURIセッションは確実に人を狂わせる何かを持っていた。
あの日のリキッドルームの空気に皆がその身を放り込んでとばされているような、そんなムードがあった。
怒涛のセットリストに必死にしがみつく修行僧かのごとくその音を堪能していた。
なので私個人の気持ち良さとか、楽しかったとか、やばかったとか、そんなようなしょうもない感想しか綴ることが出来ない。
ただひたすらに、あそこにいた各々がZAZEN BOYSの音楽を聴いて、ぶっ飛ばされて、笑っていた。誰かと目が合えば、「今、最高だね。」と気持ちが通ずる空間にいた。
途中、「6本の狂ったハガネの振動」を演奏を聴きながらふと、なぜ人は音楽を聴くのかという疑問が頭をよぎった。
音楽を聴くことが生活の一部になっている人もいれば、そうでない人ももちろんいるが、なぜ今こうしてライブに来ている人々はここまでして音楽を求めるのか。
そこに一体何があるのか。ライブというのは、「私」の何を満たしてくれるのだろうか、と。演奏を聴きながらなんとなくそんなことを考えていて「water front」へと曲目が変わり、心地よく体を揺らしていた。
生活して仕事して誰かと付き合って喧嘩して或いは何もない1日もあって、誰とも会うことのない日もあって、予想しなかったようなことが起こったりもすれば、期待していたのに肩透かしを食らうこともある。とりとめもなく皆それぞれの生活が繰り広げられていて、そこにはないリズムや衝撃や心地よさを求めに来ているのだろうなと。
とても当たり前のことだけれども、それはとても素晴らしいことだと、踊りながら笑っていた。そんな当たり前で素晴らしい行為を堪能しながら、心底、楽しいと心の底から実感してライブが終わった。会場を出たお客さんの一人一人の顔が輝いていて、なにか衝撃を食らったかのようなギンギンとした空気に包まれていたような気がする。
バーでお酒を買い、誰もがあまり帰ろうとしない。とにかくまだ、あともう少しだけこの空気に浸っていたいと、そんな気持ちを共感して笑っていたいと。
そうだよな、私もまだまだ遊び足りない、呑み足りない。
フラフラだけれどもこの衝撃を誰かに早く話したいとウズウズしていた。
忘れらんねぇ夜だなきっと、とあのライブの最初の1音を聴いた瞬間予感したことは全くもって間違っていなかった。
あ〜これだからライブに行くのがやめられないな、と。
生き続けている限り、ZAZEN BOYSある限り、私はこれからもずっとMATSURIセッションの皆様方にとばされに行きますよ。